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2016年1月31日日曜日

善徳寺と善徳寺城跡


静岡県富士市今泉町にある善徳寺城跡と善徳寺に行ってきた。







善徳寺城は和田川の河岸段丘上にあり、日吉浅間神社の一帯に築城されていたと推定されている。


日吉浅間神社に隣接する吉原公園では、日吉浅間神社の建つ段丘までの比高差が30mほどあることを確認することができ、善徳寺城が平地にありながらも要害地形を利用して築城されていたことが窺える。


なお、現在の日吉浅間神社は当初吉原公園付にあったが、明治8年に日吉ブラザー付近に移され、

さらに昭和42年に現在の地に移築されたものである。


 城郭の歴史


善徳寺城は応永14年(1471)今川範政により、富士川以東一の大寺院で、

後に今川,武田,北条の三将会盟の舞台となった善徳寺に併設され、
今川氏の軍事、政治的拠点の役割を果たしたが、永禄12年(1569)武田氏の駿河侵攻で焼失した。

現在、城の所在地、構造的規模は明らかでなく推定は難しいが、この上和田付近を城山とよび、

また鍛治町の地名の名残りで周辺地形から本石垣も含めたこの一帯に善徳寺城が存在したものと思われる。
富士市教育委員会

創築時期は不明であるが、天文年間(1532~1555)には今川氏の支城であったが、

永禄12年頃には北条氏の支城となり、その後武田氏の駿河侵攻で陥落、
廃城時期は不明であるが、北条氏時代に河東12塁のひとつの数えられ、
富士郡一帯の押さえとして重要視された。

永禄11年(1568)12月6日甲斐の武田信玄は富士川沿いに南下し、

相甲駿の三国同盟を破棄して今川領の駿河に攻め込んだ。
(三国同盟の崩壊には永禄11年1月との説もある)  

信玄の駿河侵攻に呼応するかのように、時を同じくして三河の徳川家康も遠江に侵攻した。

信玄と家康がほぼ同時に今川領へ侵攻した裏には、
今川義元亡き後国勢の衰えた今川領を大井川を境として東の駿河を武田方が、
大井川以西の遠江を徳川方が支配するという密約が事前に交わされていたという説もある。

信玄が今川領に攻め込むに至るには、今川義元の娘を妻としていた嫡男・義信との間に激しい意見の対立があり、信玄は義信の傅役だった飯富虎昌を始めとする親今川派の反逆を押さえ、嫡男・義信を幽閉することで家臣団をまとめ上げなければならなかった。

後に嫡男・義信を自害させることになるが、こうしてまで信玄が駿河へ攻め込んだ背景には、甲斐、および信濃と上野にまたがる広大な領土を持ちながらも、海への出口を持たない信玄の海への憧れ、あるいは義元亡き後、弱体化する今川領を徐々に侵略する三河・徳川家康に対する羨望と焦りがあったとも云われる。











  三国同盟に至るまで


当時、駿河府中の今川氏は、今川氏照が北条氏との同盟関係を重視し、武田氏とは敵対していた。

しかし天文5年(1536年)、氏輝の死去によって後を継いだ義元は、家督相続に際して、天文6年(1537年)に武田氏と婚姻することで外交方針を転換した。
このため北条氏との対立を招き、富士南麓の領土紛争に発展した。
その後、北条氏との関係は、講和によってひとまずの沈静をみた。
その一方で今川氏は遠江、三河へ進出し、尾張の織田氏とも対立、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いなど大規模な軍の衝突も起きていた。
このように東と西に敵を持つことは戦略上好ましくないと考えた義元は、武田・北条両氏との関係修復の上、新たな盟約を結ぶことを求めた。

今川家にとって重要な条件に気付いた雪斎は自分の命が僅かであることを悟り、

義元のために甲相駿三国同盟を用意したといわれている。

善徳寺はそんな歴史的場所である。


同盟締結による三者の利益は明らかで、

武田氏では、信濃における覇権を確固たるものにするため、天文22年(1553年)から始まる川中島の戦いで越後国上杉氏との数次にわたる争いが本格的になった。
この合戦では、甲相同盟により同じく北武蔵において上杉と対決していた北条と相互に兵を出し、今川氏からも援軍が派遣されている。
不利な点は、今川氏と北条氏が三河から下総までを支配しているため、日本海側に領地を獲得しない限り直接海に出られない、又交易出来ないということである。
北条氏では、今川氏との友好関係を取り戻し、北武蔵侵攻において武田氏とは上杉謙信という共通の敵を持つことで甲相同盟により後背の憂いをなくし、上杉を名目上の主と仰ぐ、佐竹・宇都宮・長野・里見などに対して関東の平定を押し進めることが可能となった。
不利な点は上洛する道を今川氏と武田氏に塞がれていることが挙げられる。
ただし北条氏はそもそも上洛を志向していないという説が有力である。
今川氏では、新たに影響を及ぼした三河の経営など、領内の支配体制を確立しつつ、
戦略面においては争う相手を織田氏のみに絞ることが容易になった。

武田氏の太平洋沿岸への進出が事実上不可能であること、北条氏が将来上洛を企画しても陸路では難しいことを考慮すると、三国同盟は今川氏が最も得をする同盟と考えられる。



余談ではあるが、徳川家康は今川家の人質時代、

雪斎から英才教育を受けていたといわれている。



雪斎が住職だったとされる善徳寺。


歴史的場所なので、少しは人が居るかと期待して向かったが、

やっぱり誰もいない。笑

三国同盟というすごい事が起こった場所なのに、、

もっと認知されるべきだと思った。

しかし、行ってみて新しい発見もあった。

地元では『善得寺まつり』というものが開催されているようだ。
今年で27回目になるらしい。
今年の開催は3月6日なので、時間があれば行ってみようと思う。



富士、富士宮は三国で奪い合うほど魅力的な土地だったのだろうか。

少なくとも現在の富士、富士宮は魅力的な土地だと思う。

いやー、地元の歴史って本当に良いものですね


これを機に地元の歴史をもっと調べてみようと思いました。



では、また次回‼︎




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