静岡県掛川市にある掛川城に出陣しました。
遠州鎧仁會は5月3日に浜松城へ行くことが例年でしたが、
本年は掛川城への出陣となりました。
鎧仁會を楽しみにしていてくださった方々、申し訳ありませんでした。
来年はどちらに出陣するか未定となります。








掛川城への出陣は僕は二度目になります。
天守も立派だし敷地も広くて見どころ満載です。
何回見ても飽きません。
最近では大河ドラマで井伊直親(三浦春馬さん)が駿府城へ向かう途中
ここ、掛川城主だった朝比奈泰朝により殺害されていますね。
全国の春馬さんファンにとっては因縁のある場所でしょうか。笑
直親は当時27歳だったとされています。当主としても若すぎますね。
僕も今年で27歳になりますが、当主という重荷を背負って生きていく自信はないです。
時代が時代とはいえ、なかなか厳しい環境だったことでしょう。
さて、たくさんの方に来城いただき、楽しい時間を過ごすことができました。
また、募金にご協力頂きありがとうございました。
必ず送り届けます!!
皆さんのご理解ご協力のもと、鎧仁會は活動を続けることができます。
これからも応援よろしくお願い致します。
















掛川城について
掛川城は戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心であり、
拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。
朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、
現在見られる城郭の構造の基本的な部分は、
安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。
本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、
北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、
西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。
明治以降は、廃城令によって廃城処分とされ建物の一部を残して撤去され、
道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。
現在は、1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、
堀や土塁、石塁の復元が行われている。
戦国時代の掛川城
室町時代中期の文明(1469年 - 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、
重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。
そのまま朝比奈氏が城代を務め、
泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。
ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主家の今川氏が
甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、
当主の今川氏真は本拠地たる駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。
このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭うが、泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。
しかし、多勢に無勢もあり、和議で主君氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。
氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、
相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、
掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、
さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。
しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。
山内一豊時代
その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、
1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、
掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。
一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、
石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。
現在の掛川城の天守は高知城を参考にしています。
いやー、掛川城の歴史って本当に良いものですねぇ
400年以上経っても起源が語り継がれている。
形として残っている。素晴らしいことですね。
では、また次回‼
0 件のコメント:
コメントを投稿