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2017年5月19日金曜日
臨済寺 義元公命日と今川復権宣言
静岡県静岡市葵区大岩町7番1号
臨済寺にて今川義元公の命日忌法要と特別公開がありました。
臨済寺は修行僧の専門道場となっており、
建造物・庭園内は春・秋の年2日、特別公開日以外は非公開です。
春の特別公開は、今川義元の命日にあたる5月19日、
秋の特別公開は、摩利支天祈祷会が執り行われる10月15日。
臨済寺について
今川時代
享禄年間(1528年-1532年)に、今川氏親が、
出家した子・栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)のために、
母・北川殿(今川義忠室、伊勢宗瑞姉)の別邸跡に、
太原雪斎(たいげんせっさい)を招き建立した寺院・善得院が前身である。
天文5年(1536年)、栴岳承芳の兄・今川氏輝が急逝したため、
今川家の家督を巡る「花倉の乱」が起こった。
この内訌で弟の玄広恵探を破り家督を次いだ今川義元は、
同年、氏輝を当寺に葬った(法名・臨済寺殿用山玄公)。
この際に、「善得院」を氏輝の法名に由来する「臨済寺」と改め、
京都妙心寺霊雲院の大休宗休を開山とした。
そして実際の運営を掌る2代目の住持として大休宗休の弟子・太原崇孚雪斎が招かれた。
雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、
天文23年(1554年)には「歴代序略」臨済寺雪斎書院刊を出版するなどして
今川領国内に臨済宗を広げたため、寺勢は大いに興隆した。
さらに雪斎は、当寺の住持の任にありながら、戦国大名・今川氏の軍師として、
義元の下で政治・軍事・外交に秀でた手腕を発揮してこれを補佐した。
当寺がある賤機山麓の大岩には、6代範政墓所の今林寺、
7代範忠墓所の宝処寺、8代義忠墓所の長保寺、
さらには義元の桶狭間での戦死後に12代氏真が義元墓所として建立した天沢寺など
多くの歴代今川氏縁の寺院があったとされるが、その多くが廃寺となり当寺に吸収されている。
そのため当寺には、氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されている。
公開開始前から長蛇の列でした。
2019年は義元公生誕500年ということもあり
年々今川家に注目が集まっているように思えます。
念仏を唱えながら行進する僧侶は20人以上いました。
義元の父、氏親(うじちか)の葬儀の際は僧侶だけでも7000人参加したそうです。
今川家の力の強大さが推測できますね。
今川義元
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。
今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
「海道一の弓取り」の異名を持つ。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、
外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、
戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた
桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。
今川義元に対する印象があまりよくない現代ですが
この漫画を読めば印象変わると思います。おススメです。
「センゴク外伝 桶狭間戦記」
宮下英樹先生による漫画作品です。
V6の岡田准一君も愛読しているそうです。
復権宣言にはおよそ300人が参加していました。
小和田哲男先生との記念撮影
記念に、、とサインまで書いて頂きました。
小和田先生著「城と武将と合戦と」
こちらもおススメですので是非読んでください。
今川さん焼き
とてもおいしかったです。
いやー、今川義元の歴史って本当に良いものですねぇ
いよいよ今川義元の時代が復活ですね。
復権に貢献できるよう頑張ります。
では、また次回‼
2017年5月5日金曜日
柿本城と満光寺
愛知県新城市下吉田字田中
柿本城と満光寺に行ってきました。
大河ドラマ「井伊直虎」の影響で急ピッチで作業された状態でした。
写真ではわかりにくいと思いますが遺構が結構くっきり残っていました。
今後も観光用に整備されることを期待します。
満光寺
伝承によれば、元亀年間(1570~73)、
甲斐の武田の軍勢に敗れた家康の一隊が落ち延びてきた。
家康の一隊は夕方のことで疲れも激しく途方に暮れていたが、
その時、満光寺が目にとまり、住職に頼み、仮泊させてもらうことにした。
事情を聴き、気の毒に思った住職が快く受けていてくれたので、
家康は大変喜び、住職に礼を述べ、さらに住職に、
「事情があって明朝は早立ちしたい、一番鶏が鳴いたら必ず起こしてほしい」
と、頼んで床に就いた。
だが、その日に限ってまだだいぶ暗いうちに寺の鶏が鳴きだした。
随分と早く鳴くものだと住職も不思議がったが、家康と約束していたので、
家康を起こした。家康は厚く住職に礼を言って大急ぎで闇の中を出発した。
すると間もなく、家康討伐のために追いかけてきた武田勢の一隊が満光寺を包囲した。
しかしその時には家康一隊は無事に安全な場所まで逃げていたのであった。
こうして鶏のおかげで家康は危機を脱することができたという。
のちに天下人となった家康は、命を助けてくれた満光寺の鶏に 3石の扶持米を与えて恩に報い、
さらにその後の慶安 2年(1649)、家康の孫である 3代将軍家光により寺領20石が満光寺に与えられ、
以降、徳川家に庇護されることになる。
が、年貢を収めねばならなかった農民たちは、この満光寺の鶏を羨んで、
「山の吉田の満光寺さまの、とりになりたや にはとりに」
と、うたったと伝えられている。
では、また次回‼
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