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2017年12月31日日曜日
火縄銃と尾栓とネジのこと
2017/12/30
尾栓を作りに埼玉へ行ってきました。
作業場所を提供してくれているオーナーとの都合がこの日しか合わなかったのと、
験を担いで、1年の締めに尾栓を完成させたかったという理由で、、、
1日かかってしまいましたが無事完成。
大変でしたが、やりきったので清々しい気分で新しい年を迎えられそうです。
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尾栓(びせん)
砲や銃の筒状の部分の末端を密閉する構造のこと。
火縄銃では銃身の後端にはめ込まれたボルト状の部品を指す。
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現代の暮らしの中で当たり前のようにあるネジという文明。
実は火縄銃伝来と共に日本に伝わったといわれています。
1543年、種子島氏14代当主 種子島時尭(たねがしまときたか)は2丁の火縄銃を購入。
その後、刀鍛冶の八板金兵衛清定(やいたきんべえきよさだ)に鉄砲の製造を命じました。
火縄銃の国産化には、ネジの技術が最大の難関となった。
金兵衛の製作する銃は尾栓(銃身の底を塞ぐ部品)を鍛接して固定したため、
発射すると尾栓が吹き飛んだり破損したりして、失敗の連続であった。
南蛮人の火縄銃は銃身の内側と尾栓にネジ切りをして、
尾栓をねじ込んで固定してあったのだが、当時の日本にはネジの観念がなく、
金兵衛には銃身の底を強固に塞ぐ方法が判らなかった。
思いあまった金兵衛は時尭に銃を壊して調べることを願い出るが許可されず、
苦悩する父のために、娘の若狭はネジの秘密と引き換えに、南蛮人に嫁いだとされる。
ただし、この若狭とネジの話は口承のみで、立証する資料や記録が残っていない。
そして1545年、国内初の火縄銃の製造に成功しました。
その後、火縄銃が日本の戦国史へと大きな影響を与えていきます。
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現代では様々な形状、大きさのネジが暮らしを支えています。
ちょっとした物でも、そのルーツを辿ってみると面白いので、
皆さんも身近なもので是非探してみて下さい。
今年は鉄砲三昧な日々を送ることができました。
やりたいことが自由にできるのも、いろんな方の支えあってのこと。
感謝の気持ちを忘れずに、来年も鉄砲関連で活躍できたらと思います。
明日は浜松城で初日の出を見ます。
1年がまた始まります。
毎年同じことができることは幸せなことです。
明日からまた頑張ろう。
今年1年お世話になった皆さん。
大変ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。
良いお年をお迎え下さい。
2017年12月24日日曜日
門松作り 2017年
今年も門松を作りました。
昨年とは雰囲気を変え、現代風にアレンジしてみました。
飾り納めの後は、竹を抜き取れば花壇として再利用できます。
来年も良い年になりますように、、、
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門松(かどまつ)は、竹や松で作られた正月飾りで、家の門の前などに立てます。
松飾り、飾り松、立て松とも言い、
年神様(毎年お正月に各家にやってくる豊作や幸せをもたらす神様)が
迷うことなく家にいらっしゃるよう、目印になるのが門松と考えられています。
また、樹木には神様が宿ると考えられており、
中でも松は「祀る(まつる)」につながる樹木であることから、
おめでたい樹木として正月の門松に使われるようになったそうです。
門松といえば竹が目立ちますが、本体は松なのです。
門松の由来は、平安時代(794年~1185年)の
宮廷儀礼である「小松引き」といわれています。
「小松引き」とは、その年最初の子の日(ねのひ)に外出して、
小さな松の木を引き抜いてくることで、長寿祈願のための習慣だったそうです。
門松は平安時代後期に文献に初めて登場しており、
当時は松だけを玄関に飾っていたようです。
室町時代(1336年~1573年)になってから、
長寿を象徴する竹も一緒に飾られるようになったといわれています。
門松の竹の先端部は、斜めに切った「そぎ」と、
真横に切った「寸胴(ずんどう)」の二種類あります。
「そぎ」は、徳川家康が生涯唯一の敗北をした1572年の三方ヶ原の戦いのあと、
対戦相手の武田信玄に対して「次は斬るぞ」という念を込めたのが始まりという説があります。
「竹」を「武田」に見立て、切り落としたということですね。
門松を飾るのは12月13日以降ならいつでも良いとされていますが、
12月29日は「二十苦」「苦松=苦が待つ」となり、
12月31日は「一夜飾り」「一日飾り」として神様をおろそかにするので避けた方がいい日です。
小さい門松もなかなか評判が良くて嬉しいです。
誰かのために何かをする時ってすごくわくわくするし
とてもやりがいを感じます。
そういう気持ちをいつまでも忘れないようにしたいです。
では、また次回‼
2017年12月20日水曜日
2017年12月17日日曜日
西念寺と服部正成
先日東京へ行った時
目的地になかなか辿り着くことができずGoogleマップを使いました。
すると現在地の近くに「服部半蔵の墓」の文字がありました。
時間に余裕があったので寄り道をする事に、、、
道中、やけに坂道が多いなぁと思っていると
どうやらこの辺り一帯が「鉄砲坂」という場所で、
昔、鉄砲の練習場があったという事でした。
現在は住宅地になっています。
辿り着いたのは「西念寺」
ここは服部正成が開基した寺で、服部氏の菩提寺であり、
正成をはじめ服部一族の墳墓が存在しています。
服部正成(はっとり まさなり/まさしげ)は
戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。
通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。
また、鬼半蔵の異名を取る。実戦では、伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。
旧江戸城、現皇居の半蔵門はこの服部半蔵からきている。
またこの場所には、正成が守役を務めた徳川家康の長男・信康のために
彼が建てたとされる供養塔がありました。
先月、浜松市二俣にて信康公のお墓に手を合わせたばかりで、
そして今月、たまたま辿り着いた地で供養塔に手を合わせることになるとは、
何かに導かれているのか?と、とても不思議な気持ちになりました。
たまには迷子になったり、気の向くままに寄り道するのも悪くないなと思った1日でした。
明日も良いことありますように。
ではまた次回!!