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2018年5月4日金曜日
馬場信春墓所
豊川沿い、出沢の道から山の中へ
獣道を歩いて行くと、石碑がある。
武田家家臣、馬場信春の切腹した場所と伝えられている。
とくに目立つ看板や案内は無いものの、
生花が供えてあるということは
誰かがここに通っているということだろうか。
何百年も前に亡くなった方の生涯を
地元の人達で伝え、残しているように感じた。
全ての人が認知することより
より鮮明に残せる人が少人数いるだけで良いのかもしれないと思った。
そんな五月の暑い日。
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馬場信春
5月21日の設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では
武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。
元々、数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、
次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。
大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、
殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。
『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。
これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、
比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。享年61。
この人のような立派な最期を迎えられたらと思います。
生き様は死に様。
では、また次回!!
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