『火縄銃の値段 前編』で当時と現代のお金の価値についてある程度理解してもらっている前提で話を進めていきます。
鉄砲伝来
1543年、種子島(現在の鹿児島県)にて種子島時堯(たねがしまときたか)がポルトガル商人より鉄砲2挺を買い付けました。いわゆる鉄砲伝来です。
これを機に日本における戦の戦法が大きく変わっていきました。
これを機に日本における戦の戦法が大きく変わっていきました。
では、一体いくらで火縄銃を購入したのでしょうか。
金額についての資料
まず、火縄銃の価格について触れている資料ですが、僕が参考にしたのは以下の4つです。
1、『鉄炮記』 著・南浦文之 編・南浦文之
2、『南島偉功伝』 著・西村時彦
3、『遍歴記』 著・フェルナン・メンデス・ピント
4、『東洋遍歴記』 著・フェルナン・メンデス・ピント 訳・岡村 多希子
上記資料の中で価格について触れている部分
1、その価の高くしておよび難し
2、鉄炮献上の礼に二千金送った
3・4、お礼に銀1000タエルもらった (注1)
前編の換算率に照らし合わせて計算すると
2、『南島偉功伝』 著・西村時彦
3、『遍歴記』 著・フェルナン・メンデス・ピント
4、『東洋遍歴記』 著・フェルナン・メンデス・ピント 訳・岡村 多希子
上記資料の中で価格について触れている部分
1、その価の高くしておよび難し
2、鉄炮献上の礼に二千金送った
3・4、お礼に銀1000タエルもらった (注1)
前編の換算率に照らし合わせて計算すると
二千金の場合
金一両=約724,000円約724,000×2,000=約14億4,800万円
1挺=約7億2,400万円となる。
銀1000タエルの場合
御定相場によると (注3)
銀1匁=約80文=約8,800円
1タエル=約88,000円
1000タエル=約8,800万円
銀1匁=約80文=約8,800円
1タエル=約88,000円
1000タエル=約8,800万円
1挺=約4,400万円となる。
当時「両」という通貨単位が存在していなかったことを考えると、
遍歴記を元にした金額で考えて良いと思うのですが1つ引っかかることがあります。
遍歴記を元にした金額で考えて良いと思うのですが1つ引っかかることがあります。
それは、遍歴記の著者『フェルナン・メンデス・ピント』の人間性です。
『フェルナン・メンデス・ピント』とは
ポルトガル冒険家、遍歴記の著者である。
「遍歴記」はピントが商人として日本を含むアジアやアフリカを旅した記録です。
遍歴記によると鉄砲伝来当時のポルトガル商人の1人だったとされているので、1,000タエルで取引したという記述がとても信憑性の高いもののように思えるのですが、実はピントさんにはある異名があったのです。
それは『ほら吹きピント』
遍歴記に嘘や誤りが多いことからその様に呼ばれています。
せっかく時間をかけてお金のことを調べて計算もしたのに、
最後の方でピントについて調べたらコレでした。笑
最後の方でピントについて調べたらコレでした。笑
せめて、種子島で過ごした時のことだけは真実であってほしいです。
話が少しそれましたが、火縄銃伝来当時の金額についてまとめると。
火縄銃伝来当時の金額
上記の換算率から、
1挺=約4,400万〜約7億2,400万円
となります。
かなり幅がありますね。
参考にした御定相場が1609年頃のものなので、実際はもう少し高い範囲の幅で収まると思います。
そして、これを購入したのが種子島時堯(たねがしまときたか)です。
1挺=約4,400万〜約7億2,400万円
となります。
かなり幅がありますね。
参考にした御定相場が1609年頃のものなので、実際はもう少し高い範囲の幅で収まると思います。
そして、これを購入したのが種子島時堯(たねがしまときたか)です。
時堯は種子島を治める大名でありましたが、この額を出せるだけの財力があったのがすごいですね。
しかも当時16歳でこの決断をしたのだから驚きました。
しかも当時16歳でこの決断をしたのだから驚きました。
この金額が当時の税収入の割合として、どの程度だったのか気になるところですが、資料集めと計算がものすごいことになりそうなので、これについては気が向いたら調べます。笑
おわりに
こうして日本に伝わった火縄銃ですが、
鉄砲伝来から国産化が始まり、入手性が良くなってくると各地で起こる様々な出来事に影響していきます。
秀吉時代には1挺9石で購入できたとか。
それらについてのことも追々書いていくつもりです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
では、また次回!!
注1、「タエル」は15世紀末から19世紀にかけて,ヨーロッパ各地に通用したもとプロイセンの銀貨の名で,ドイツでは長く貨幣単位とされた。
注2、この換算率では全てを律することは出来ないので参考程度に使用すべき。『日本大文典』
注3、1609年(慶長14年)に金1両=銀50目(匁)とする御定相場が公布されたが、実態は市場経済による変動相場であった。『江戸の貨幣物語』
注3、1609年(慶長14年)に金1両=銀50目(匁)とする御定相場が公布されたが、実態は市場経済による変動相場であった。『江戸の貨幣物語』
参考資料
『大内家壁書』『江戸の貨幣物語』『日本銀行金融研究所貨幣博物館』
『鉄炮記』『南島偉功伝』『遍歴記』『東洋遍歴記』『日本大文典』
『貨幣の地域史』
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